発達障害・高校中退・うつからのV字回復成功例
これは私の長男(現在23歳)のストーリーです。
どん底からのV字回復
通信制高校へ21歳で編入、2年遅れで高3からやり直し
高校3年生で都立高校を中退
私の長男は高校3年生の6月で、せっかく頑張って合格した都立高校を中退してしまいました。
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ほとんどの単位を取っていたので、当初はすぐに高卒認定を取ると言っていたのですが、実際タガが外れてしまうと、自力で勉強して認定を取る、というのは難しいものですね。
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紆余曲折あったのち2年の空白を経て、21歳で通信制高校を3年次からやり直すことになりました。
中卒ではやはり選択肢が非常に限られていた
マッチングする仕事がほとんどない現実
高校中退後、通信制高校へ入るまでの空白の2年間、全く何もしなかったわけでもなく、沖縄に移住して一人暮らしをし、
”建設現場手伝いの仕事、引っ越し屋、観光案内の仕事、ホスト、コールセンターでの仕事、産業廃棄物処理、WEB作成補助、私の仕事の手伝い”
など彼なりに様々なことにチャレンジはしていました。
ですが、たとえばお給料はそれほど悪くなくても、
・単純作業
・肉体的にきつい
・仕事内容から長期に渡ってやっていく未来を描けない
・人間関係が良くない
など、何かしらの理由がネックとなり、数カ月くらいは頑張ることができても、ある日突然ポキッと心が折れてしまうようなのです。
彼の持っているADHDならではの良い面だと思うのですが、瞬発力はすごく、短期間でこなせるようになるため期待されてしまいます。しかし肉体的には毎日毎日それに応え続けることが重くなり、次第に心のバランスを保てなくなる、ということが一番大きい要因のようでした。
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私は良く症状が分からない人には「自分が高熱の出た時のことを想像してみて下さい」
と伝えています。
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表からは見えないけれども、体の中がとても消耗していて、うまくできない状態というのが近いかと思います。
せっかく発達障害の症状が消え、元気になった矢先だったのに
経緯をご存知のない方のために詳細は後述しますが、彼が高校生になる頃には、発達障害と診断されたことが信じられないくらい症状が改善していました。
しかし東京から単身で沖縄に行ったこともあり、慣れない土地での孤独な生活とも相まって、次第にやせ細り、うつ状態になっていきます。
元気だった頃の面影がないほど体も半分くらいにやせ細り、ユニクロの女性用のSサイズを着用してもまだ、ダボダボしているほどになってしまいました。
特に天気の悪い日はどうしようもなかったようです。
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ニワトリの足の指のように細くなってしまった彼の指を見ながら、沖縄に行く空港で見送った時にはあんなに元気だったのに、どうしてこんな風になってしまったのだろうと、何度も何度も胸が締め付けられました。
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卒業証書を手に入れた後、自力で就職先を見つける
つきつけられた厳しい現実
可哀そうな姿でしたが、それでも大人になった彼の面倒をいつまでも見続けるわけにもいきません。
私も腹をくくり、
「高校卒業の資格を取得したら、きちんと働いて自活しなさい。どうしても思うように働けないのなら、生活保護の申請をしなさい。」
と伝え、実際に精神科や区役所などに行かせました。
そして彼はそこで厳しい現実をつきつけられたのです。
コロナ禍だったこともあり、そう簡単に生活保護は受けられないこと、生活保護を受けるのならば、障害者としての認定を受けること。
もちろん私や元夫のサポートが一切あってはなりません。
働く気がないわけではないけど、思うように続けられる仕事に巡り合えない上に、コロナ禍もあって職探しも厳しい。
かといって私も元夫も、空白の2年間、相当な経済的サポートをしてきており、自分たちの生活もあるのでこれ以上はもう援助もできないし、またし続けてもいけないのだろうとも思っていました。
力なく歩いて帰る彼の後ろ姿は、信じられないほど華奢で、はかなく、私もこの時ばかりはどうにも涙が止まりませんでした。
幼い頃の長男が脳裏に浮び、こんな姿にしたくて育ててきたわけじゃなかったのに…と。
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思わぬ展開
ところが、思いもがけずここで彼に何かスイッチが入るのです。
「もう一度できるところまで頑張ってみる。」
数日間悩んだ彼はそういって、卒業証書を手にした後すぐに職探しをしたようでした。
そしてしばらくあれこれ探した後、びっくりするほど良い条件・待遇の仕事を見つけてきたのです。
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良い循環がどんどん回り始める
空白時代に培ったゲーマーとしての探求心が思わぬ形で成就
彼が応募し面接を受けて合格したその会社は、私の予想を完全に裏切り、なんとグローバル展開をしている大企業でした。
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インターネットとつながる様々な製品やシステムを販売しており、定期的にそれを導入しているお客様のところでサーバーシステムの入れ替えが必要となるため、技術的なサポートもしています。
長男は実はそこそこの腕前のゲーマーらしく(一時期、配信をして投げ銭や贈り物などをいただき生活していたことも)、凝り性なので、空白時代にWEB関連やサーバー関連の情報についても一通り独学で身につけていたようでした。
そのため技術系の部門で重宝されたようなのです。
そして次第に北海道、近畿、東北へと長期出張にも行かされるようになっていきます。
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家賃・出張手当・生活費もお給料に含まれる夢のような生活
長い時には3か月~半年近くその仕事に関わることになるため、そうした場合はホテルだと割高になるので、会社が家を借りてくれる上に光熱費も生活費も全て出してくれるとのことでした。
ちなみに、それ以外に彼は東京にも家を借りているのですが、その半額を会社が払ってくれています。
つまり、
家賃+生活費+お給料+出張手当=なんだかんだで40万近く!会社が支払ってくれているのです。
残業もなく、自宅作業日もあり、人間関係もとても良くて、本当にホワイトな会社で働きやすいとのことでした。
高卒、しかも2年の空白有の彼が、こんなに良い仕事に就けるとは正直思っていなかったので、本当に驚きです。
(むしろ私がそこに就職したい…)
中卒とは選択肢に雲泥の差があることを痛感しました。
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2年続けて頑張って働けている
こうした良い条件が重なって、なんともうまる2年近くきちんと働けているのです。
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感謝の言葉と名刺に胸がいっぱいになる
美味しいという言葉を聞いて思わず涙が
良い変化はそれだけではありませんでした。
発達障害の症状を持つ人は、味覚や嗅覚が敏感なことが多々あります。
長男もそうでした。
そのため調味料は塩か醤油だけ、お米の炊き方・塩のブランド・生姜や醤油の量・火の入れ方などにも、私にはわからない繊細なこだわりがありました。
思春期を迎えた14歳の頃から、次第に私の作ったものはあまり口にしなくなり、自分で作って食べるようになりました。
そのため、彼から「美味しい」なんていう言葉を、もう何年聞いていないか思い出せないほどです。
それが、先日、1年ぶりに会った際に出した私の手料理に手を付けてすぐ、
「ん、おいしい!」
と言ったのです。
耳を疑いました。
そこには、以前だったら絶対に手をつけることすらしなかったであろう、キノコ類や野菜のオーブン焼きもあったからです。
「仕事の付き合いで食事したり飲みに行くことも増えたから、いちいちあれダメ、これダメって言っていられないし、そうしているうちに食べられるものが増えたんだ。」
自分でも栄養素に気をつけるように
そればかりではなく、おつきあいで飲んでも絶対に二日酔いにならないように、カリウムやビタミンB群をしっかり摂取しているだとか、肌をきれいに保つために、アミノ酸や乳酸菌などもしっかり摂取しているというのです。
実際、2年前のあのやせ細り生気のない姿はもうどこにもなく、健康的で凛とした成年になっていました。
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しかし先述のようにうつ状態になってしまってからは、何もかもがどうでもいいといったような感じで、ろくに食事をとらず、私が手配したサプリメントや、差し入れた食事などもあまり手を付けずに、エナジードリンクとコーヒーばかり飲んでいる状態だったのです。
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もし自分が親になることがあったとしたら、ここまでできるかどうかわからない
お酒を一緒に飲んでいたので、次第に昔住んでいた場所のなつかしい話や、パパ(私にとっては元夫)の話などにもなりました。
そうした中で、
「今ようやく少しずつわかってきた気がする。金銭的なことも含めて、もし自分が親になることがあるとしたら、ここまで子どもにしてやれるかどうか…」
と感謝の気持ちを言葉にしてくれました。
この言葉に、長いこと自責の念に苛まれていた私の心が救われました。
私も涙ぐんでしまいましたが、長男もウルウルしていたように見えました。
(お酒のせいかな?)
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何かあったら頼ってほしいとまで
「パパもママも、老後は自力で何とかするから、面倒見なくていいって言ってくれるところが、イイよね。でも何かあったら連絡して。力になるから。」
そんなことまで言ってくれるようになりました。
私 「・・・連絡つくのか?(-_-)」↽疑いの目
長男「そういう時は大丈夫だと思う(笑)。」←実際何か感じるものがあるらしく、これは事実
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名刺に刻まれた名前と社名、部署名に胸がいっぱい
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別れ間際に名刺をもらいました。
その名刺に刻まれた名前と社名、部署に、
「本当に頑張っているんだな」
という思いで胸がいっぱいになりました。
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鍛えた思考力・国語力も大きい礎に
さて、彼がこうしてなかなか普通では考えられないような幸運を手にすることができた理由の1つに、私はやはり、思考力を含む国語力が大きいと考えています。
正直、次から次へと興味の対象が移っていく彼の質問に答え続けることはしんどいものでしたが、会話の中で、
「それはどういうことだろうね?」
「君はどう思う?ママはこう思うよ。」
ということを都度心がけるようにはしていました。
また、小学4年生の頃から、今解き教室という時事問題を扱った問題集を解かせたり、今は無くなってしまいましたが、ドラゼミを用いながら長文読解のコツなどを教えたりしていました。
小学5年生からは、小論文の書き方を教えていきます。
(最初は2日たっても、読書感想文を一行しか書けないところからのSTARTでした。)
国語力は、本当にスポーツと同じで(数学もそうですが)、毎日地味にやっていることが必ず効いてきます。
社会に出た時に、瞬時に状況を判断できる思考力、相手に納得してもらえる論理的会話力など、絶対に必要かつ認められる重要な武器になります。
こうした未来があることを、苦しかった時の私だったら知りたかっただろうなと思ったので、何か1つでも、どなたかのヒントや希望になればいいなと思ってお伝えしてみました。
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ここから先は、別記事でも書いているので、ご興味ある方だけ読んでくださいね~。
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高校中退に至るまでの経緯
小5で発達障害(現在は神経発達症)と診断
重度のADHD+若干のASDとLD
長男が小学5年生の時に、都立大塚病院の児童精神科にて診断を受けました。
当時は、衝動性が強すぎて、脱走したり・公共物を破損したり・家を火事にしてしまうなどといった行動や、不注意・学習障害の症状がひどく、診断を受ける前までは、学校からもあれができない・これができないと責められる日々で本当につらかったものです。
定規を使っても真っすぐな線を引けなかったり、重なって見えるので字がよく見えないといって眠ってしまったりするので、今ほど情報がなかった当時はふざけていると思われ叱られがちでした。
また、加減がわからないので、絵の具を大量に出してしまったり、本人は軽く投げたつもりの石が学校の窓を割ってしまったり・・・。
持ち物は、学校からのプリントを持って帰ることもしなければ、家で用意したものを学校に持って行くこともしない(途中でどこかに落として無くしてしまう)といった感じでした。
分子栄養学・量子生物学との出会いで劇的に改善
薬ではない細胞レベルでの改革が功を奏す
私はもともと医療業界にいたこともあり、薬ではなく根本的な改善をめざして、分子栄養学に基づいた治療を取り入れました。
食事改善とサプリメント摂取による必要栄養素の底上げだけでも、半年~9カ月で見違えるほど改善しましたが、ぐぐっと最後に大きい変化をもたらしたものは、
「量子生物学」
ともいうべき分野の知識でした。
ここでは長くなるので省きますが、目には見えないけれども人間の細胞は実に様々なもの(電磁波が良い例)からも影響を受けているということです。
とても簡単にいうと、そうした影響の良い部分は取り入れ、悪影響を与えているものを取り除くという作業をしたことで、すぅ~っと流れるように事態が変化していきました。
私が、「発達障害の症状」というように書いているのは、こうした理由があるためです。
「症状」としては出ているけれども、それはたとえば風邪の症状が回復したら出なくなるように、表にその症状が出なくなる可能性もあるのです。
1:分子栄養学と量子生物学との関係
高校中退後、タガが外れたように様々なことに手を出す
せっかく改善し、もう大丈夫と思ったのもつかの間、おそらく私と元夫が離婚したことも要因の1つだと思いますが、既に高校3年生になっていた彼は、アルバイトで結構な額を稼いでいたこともあり、そこで出会った先輩たちの影響でタバコに手を出すようになりました。
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さらに高校中退後は、次第に似たような仲間とツルむようになり、お金や物の貸し借りでもめたりするようになっていきます。
先輩の運転する車に同乗し、夜の首都高を飛ばしまくるなどの危険な行為もしていたようでした。
そそのかされて、勝手に当時住んでいたマンションの共用車を持ち出したこともあります。
全てを断ち切るかのように沖縄へ移住
元夫もそうした仲間との間に立って色々と長男を守るためのフォローをしてくれていたようですが、私は思い切って沖縄に移住することを長男に提案しました。
一旦、そうした仲間と物理的に会わなくなることが必要だと考え、また時間もゆったり流れ・暖かい気候の沖縄は、長男の特質にも合っているので、色々とリセットし、元気にやっていけるのではないかと考えたのです。
沖縄は仕事の関係で10年近く通っていたこともあり、ツテがあったことが幸いしました。
入院、事故なども重なりうつ状態に
ところが、沖縄入りして間もなく、急性大腸炎でしばらく入院することになってしまいました。
そこから回復し、運転免許を取ったものの、今度はすぐに交通事故(自爆)。買ったばかりの車が大破しました。
そうしたショックや体調不良が重なった上に、友だちもおらず、遊ぶところもないので(那覇ではなく、北部の山の方だったため)、次第にうつ状態になっていき、しまいには部屋に閉じこもって、誰とも連絡を取らなくなってしまったのです。
何度も何度も私と元夫が交代で沖縄に駆け付ける事態となってしまいました。
仕事を頑張るのでしばらくの間なんとか助けてもらえないか、という長男の願いを聞き入れ、コロナ禍で閉鎖していた子ども研の事務所に寝泊まりすることを許す代わりに、通信制高校に通い直して高校卒業することを約束させたのです。
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