不登校や発達障害の子こそ”自分を守るための国語力”が必要
この記事は、不登校の状態の子や、発達障害などと言われている子たちが、なぜ国語力が必要か、それが自分を守ることになるのか、についてお伝えするものです。
文章を書くテクニック以前の問題がある
自分の気持ち自体が「無」に近い子がいることは、あまり知られていない
子どもの発達デザイン研究所 国語塾には、小5~成人まで幅広い受講生がいます。そして、生徒の中には、不登校や、発達障害・凸凹などといわれている症状を持つ子も多数います。
私自身の子どもも含め、そうした子たちを教えてきて、初めてわかったことがありました。
そもそも論で、自分の気持ち自体が「無」に近い状態の子も結構いる
ということです。
うれしい、楽しい、悲しい、さみしい
といった感情や、
おいしい、まずい
といった味覚、
痛い、だるい、息苦しい、重い
といった体調などを表す感覚。
こうした感情や感覚は、共通の感覚として「皆同じようにある前提」で、会話も教育も進んでいますよね。
しかしながら、こういう感覚が混とんとしている子が結構いるのです。
そして、その混とんとした状態であることに周囲が思い至らないことがほとんどのため、本人も、生まれてからずっとそういうものだと思って生きていますから、そのことを知るきっかけが生まれない限りずっと、感情や感覚を表す言葉に対して、理解できなかったり、違和感を感じたままでいることになります。
本当は「無」ではなくて、それなりにあるのですが、すべてがごちゃまぜになったまま・あるいは未成熟のまま、闇の奥の方にあって、それをうまく整理したり、取り出すことができない状態といったらよいでしょうか。
自分の心に気づかなければ文章をアウトプットすることができない
よく読書感想文などを書かせると、
「面白かったです。」
以外に書けない、といったお声も多数寄せられます。
これは実は、テクニック以前の問題で、本当に自分の心の動きがわからなかったりするのですね。
当然、そこから文章は紡げません。
そのため、国語塾では、まず
「自分の気持ちを具体化していく」
というステップを踏んでいきます。
たとえば、今日の夜ご飯に何を食べたい?といったこちらからの質問に対して、生徒がハンバーグ、と答えたとします。
それはなぜ?
と聞くと、たいてい、美味しいから、好きだからといった答えが返ってきます。
なぜそれが美味しいのか?
なぜそれが好きなのか?
それを一緒に探し、言語化していくお手伝いをしつつ、具体化していきます。
一緒に具体化していくことで、1つずつ、自分の気持ちはこうだったんだ、こう表現していいのだ、といった、自分の辞書ができていきます。
一度、こういう時には、こう表現すればいいのだというパターンができると、少なくとも同じ質問には答えられるようになります。
この辞書の内容が多くなればなるほど、表現できることも増え、コミュニケーションが楽になっていくのですね。
自分と他者との境界があることを知らない子もいる
もう一つ、わかったことがありました。
それは、
「自分と他者との境界があることを知らない」
ケースもある、ということです。
自分の見えている世界が、相手にも全く同じように見えている、という感覚と言ったらよいのでしょうか。
自分が知ってることは、当然相手も知っている
という感じで、「自分は知っているけど、相手は知らない」という状況がわからないのです。自分の中の感覚としてないため、理解しづらいといった側面もあるように思います。
ちなみに、自閉の傾向が強まるほどこの傾向も強まるように思います。
またこうした子は、話す時に、誰が とか 何が といった主語が抜けがちです。
自閉症の症状を持つ方ご本人が書かれた著書などを読むと、よりイメージしやすいのではないかと思います。
随分前に読んだ本からになりますが、参考までに…
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極端な例でいうと、ニキ・リンコさんなどは、自分と他人どころか、ご自身の背中や足があることも忘れてしまうくらいで、しばらくこたつに入っていると、どうやって立ち上がったら良いのかわからなくなってしまったり、うっかりパーカーのフードが何かにひっかかってしまうと、背中があることを忘れているので、なぜ歩けなくなったのか理解できず、しばらくそこで立ち止まったままになってしまう、といったこともあったそうです。ㅤ
また、彼女が翻訳した本のなかに、”アスペルガー的人生”という、海外の方の書かれたものがあるのですが、この作者リアンさんは、両親や友人などは、自分の視界から消えるといないものだ、という認識をしていたといったようなことが書かれていました。目の前に現れた時だけ、そういう役割を演じている人だ、という感覚だったとのことです。
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「客観視する」「俯瞰する」という能力が欠けていくに従い、そうした認識になっていくことのわかりやすい例かと思います。
国語力を鍛えることは社会で生きる力をつけること
国語力を鍛えることはカウンセリングそのもの
自分の気持ちを明確化していく作業は、
「それはなぜ?」
を繰り返していく作業です。
そのため、自分でも気づかなかった様々な思いが具体化されていきます。
文章という目に見える形になって初めて、目から自分の中に落とし込まれていく、すなわち腑に落ちるといったステップを踏んでいきます。
これは、カウンセリングそのものでもあります。
なぜあの時は不快だったのか
あの時本当はどうしたかったのか
自分にとって大切にしているものは何か
本当の友だちとはどういう存在か
こんなことを深く掘り下げていくため、客観的に自分の気持ちを知り、向き合うことができるようにもなっていきます。
そうすることで、心の奥底にたまっていた様々な思い、それはまるで
”何年も掃除をされておらず、必要なものも不要なものも山のように積み上げられ押し込められていた開かずのモノ置”
のようなものが、きれいに片付いていくような状態だともいえるのです。
心の中の状態を知り、それを言葉にできることは、発達障害云々関係なく、どの人にも必要で大切なことですよね。
とりわけ、周囲とのコミュニケーションで誤解を生みやすい子の場合は、なおさらこうしたことが重要になってくるのは、言うまでもありません。
言葉は、相手にとって、わかりやすく伝えるためにある道具である
これは対象を限ったことではなく、全ての人に対して言えることでもありますが、案外、見落とされがちなのが、この本質です。
「自分の伝えたいことを伝えるために」
言葉がある、という誤解の前提で進めてしまうと、「どうしてわかってくれないの?」といったストレスを生んでしまいます。
しかしながら、逆で、言葉は、
「相手にとって、わかりやすく伝えるためにある道具」
なのですね。
ポイントは、自分目線ではなく、第三者目線に立つことなのです。
この視点で考えられるようになるということは、おのずとソーシャルスキルトレーニングにもなります。
また、友人関係、恋人関係、夫婦関係、職場での関係
あらゆる場面でも役立ちます。
国語力とはいいますが、学校の国語の勉強で良い点を取ったり、受験で合格するためのものではなく、国語力は自分という存在と他者との存在を明確に区別し、自分というものを理解するための、生きるためのツールそのものだと、私は国語塾を通して痛感しています。
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